核密約 笠井亮議員「討議記録を知っていたか」(産経新聞)

 衆院外務委員会の19日の参考人質疑(日米密約など)で、共産党の笠井亮議員が質問した。

 −−東郷参考人。1960年1月6日の日米間の討論の記録について、条約局長はそういう文書を知り得る立場だったのか

 東郷和彦元外務省条約局長「そのようにご理解いただいてよろしいと思います」

 −−この討論記録をいつ何によって知り得たのか

 東郷氏「確実に申し上げられるのは、前任者から、ひと束の資料を引き継ぎ、それを整理した。そういう過程の中で討議記録の文書があったということで知りました」

 −−東郷メモによると「口頭にてブリーフ済み」と書かれている。そのとき討議記録を承知したのではないか

 東郷氏「大臣どういうブリーフィングをしたかは全く記憶がありません。推測するに、このブリーフィングは当時の次官から大臣に行われ、私はその席にはいなかったと思います」

 −−斉藤参考人は、在任中この討議記録の存在を知っていたか

 斉藤邦彦元外務事務次官「知っておりました」

 −−どういう性格の文書だと了解していたのか

 斉藤氏「説明を受けたことはないんですけど、直接、討議の記録を見たのは、米国の文書公開によって公開され、それを入手した日本人の新聞記者から見せられたときのことです。1999年、たぶん私が米国にいたときだったと思います」

 東郷氏「この問題については、実際に起きていることと、政府が説明してきたこととの間にギャップができてきたと当時も思っておりました。そのギャップができてきた経緯の中で、日米間で取り交わされた討議の記録という文書がある、と。その文書の解釈、位置づけによってどういう問題であるか明らかになる。そういう交渉上、意味を持っている文書だったと理解していたと思います」

 −−斉藤氏は条約局長時代は知らなかったということか

 斉藤氏「知らなかったと申し上げたわけではございません。条約局長はそういう文書の存在を知る立場にございます。私自身、たいへん残念なことに、記憶がはっきりしていないので、先ほどは1999年の、記憶がはっきりしている方を申し上げたのですが、たぶん条約局長のときだったと思いますが、討議の記録という文書を見たことがございます。ただ、それを読んで、これが密約にあたるという認識はいたしませんでした。したがって、必ずしもはっきり覚えていないということになっております」

 −−この討議記録は、岸ハーター交換公文として公表された第1節の部分と、非公表・秘密の第2節からなっている。第2節は、交換公文の解釈についての了解事項として理解されていたのか

 東郷氏「この文書が、安保条約の改定交渉のときにつくられた他の文書とどういう位置関係にあるかに関しては、私は特段の意見を形成しませんでした。こういう文書があるという、その文書が、核兵器の日本の搬入に関連のある重要な文書だという認識はありましたが、条約の本体、交換公文とどういう位置関係にあるかということは特段の意見を形成しませんでした」

 −−原本、英文の複写をごらんになったことはあるか

 斉藤氏「複写を見たことはございますけれど、記述されているコピーと同じ文書かどうかについては確信がございません」

 東郷氏「整理しました第1の箱の中に、この討議の記録のコピーはございました。ただ、署名欄に何が書いてあったかについては記憶がございません」

 −−1960年1月にマッカーサー大使がハーター国務長官に送った伝報では「日米安保条約を構成する文書群」というのがある。2国間の取り決めなので、日本側にも同様の文書群がなければおかしい。条約局長として承知していたのか

 東郷氏「当然、安保条約の本体、それから一緒に署名された交換公文があったことは承知していたと思います。討議の記録という文書があったということも認識していましたが、全体としてどういう位置づけを持っているかに関しては、その段階で、それ以上の研究はいたしませんでした」

 −−伝報では「日米安保条約にかかわって、われわれが承知している条約文書の全リスト」というのがある。17項目あり、14番目に討論記録が入っている。討論記録を含めた安保条約にかかわる文書群のリストも日本側にもありますね

 東郷氏「そういうものはあったかもしれませんが、条約局長室の中に残っていました文書の中にそういうものはありませんでした」

 斉藤氏「条約局長室には安保条約関連のファイルがいくつかありましたが、番号を付したリストは私も見たことはございません」

 −−おかしい。日本側にリストがなかったということになると、条約をどう担保することになるのか

 東郷氏「外務省で安保条約に関連するすべての原資料、ただし、条約の署名交渉を除きますが、それ以外のすべての資料は北米局に所管されます。条約局にある資料はそのコピーでございます。条約局長室の中には、さらにその一部が残されたということですので、条約局長室の中にその文書がなかったということは、条約の交渉全体のファイルがなかったことは意味しません。北米局の中に、今回の調査で、膨大のファイルがあったと聞いております。その中に、当然残っているべきものだと思います」

 −−条約局長室とは限定していない。外務省の中にあるか、ないか。条約局長が分からないとなったら、安保条約ってそういうことか、となってしまう。2国の政府間で、政府代表で署名する。扱いは秘密文書と確認した場合、公式の合意文書でいいのか

 東郷氏「合意文書の意味ですが、国際法上の権利、義務関係を設定する約束としての合意文という質問であれば、必ずしもそういうことにはならないと思います。しかし交渉の過程で、双方の考えるところを記録として残す内容については意見の一致があるという意味であれば、合意文書と申し上げてよろしいと思います」

 −−そうだとすれば、当然、討論記録というのは日米両国政府間の公式の合意文書ということで間違いないですね

 東郷氏「いま申し上げたような意味であれば、そうご理解いただいてよろしいと思います」

 −−東郷メモは、政府内でこの問題の説明資料となっていた。欄外に誰から誰にということで説明がついている。佐藤政権から海部政権までの首相、外相などに説明をしたという記述がある。東郷氏はいつどの約束のときに最初にごらんになったか

 東郷氏「発表されたメモの1ページ目にいろいろ書き込みのないものを条約局長室で読んだ記憶があります。書き込みのあるものについては今回、資料が発表されてはじめて知りました。そのような形で、そのメモが使われたことも全く知りませんでした」

 −−斉藤氏は公表されてから知ったというが、聞いたこともないのか

 斉藤氏「ございませんでした」

 −−最初に書き込みのあるものが、最初のところが条約局長になっている。そういう形で回ってきているはずだが、条約局長が承知していないのにできたのか

 斉藤氏「どのレベルで扱うかという判断が、最高のレベルで行われて、私が条約局長だった時代には条約局長には回ってこなかったと考えます」

 −−斉藤氏は「日米間に了解の差があると思っていた」という。その国会議事録を読んだのはいつか

 斉藤氏「記憶がはっきりしないのですけど、もしかしたら私が条約局長をしていたときだったかと思います」

 −−年代でいうといつごろか

 斉藤氏「私が条約局長になりましたのは1976年だった。78年まで在職しました」

 −−この東郷メモがなぜ極秘で歴代首相や外相、外務省幹部に引き継がなければならない文書だったかについて、どういう認識か

 東郷氏「発表された資料の1ページを見まして、飛行機の中でどういう話し合いが行われたかを記録したもので、その最後に、今後この問題についてはこう考えるべきではないか、という北米局長の意見が記されているだけのもので、そのメモが歴代の総理に対する説明の基礎になったということは、びっくりしました」

 −−斉藤参考人。上司だった事務次官は、「次官の引き継ぎ時に核に関しては日米間で非公開の了解があると聞いて、次の次官に引き継いでいった。大秘密だった。政府は国民にうそをついてきた」と証言している。「次官が大臣に密約内容を伝達するのが秘密の義務だった」とも言われている。そういう認識だったのではないか

 斉藤氏「引き継ぎを受けませんでしたし、どの総理にもこの問題をブリーフしたことはございませんでしたので、そういう認識は持っておりませんでした」

 −−条約局長もされ、次官もされた方が知らなかった。どういう感想を持つか

 斉藤氏「91年の核兵器を艦船には搭載しないという米国の政策変更。この問題は現実の問題ではなくなってきているので、私が次官になった93年、当時は引き継がれなかったということだろうと思います。私が条約局長のときになぜ知らされなかったかにつきましては、不徳の致すところかもしれませんけれど、上層部の判断で、どのレベルまで話をするかという決定がされたからではないかと思います」

 −−東郷メモでは、核搭載艦船の寄港問題と、討論記録に関する米国との行き違いの経緯について振り返って、双方が双方の立場に異論を唱えることなく続ける、と。その結果、米核搭載艦船の事前協議なしの寄港が可能になるという問題処理を崩しようがない。現在の立場を続ける他なし、と。今のままでいくしかない、としている。東郷参考人はこういう対処の仕方について疑問をもって、何とかしようということは考えなかったか

 東郷氏「4ページのリストと一緒に、3ページの意見書を、条約局長をやめるときに書きました。おおむね3つのレベルで考えるべきだ、と。第1のレベルは、国会における質疑をなんとか破綻ないようにするために、今後どうやっていったらいいか若干の意見は書きました。けれども、いずれ討議の記録という文書の存在を含めて世の中に出てくる。そのときに、これまでの説明ではとても対応できない。従って、60年に問題が起きたとき以来、日米間に認識の差があったと。その認識の差があったという状況がそのまま続いてしまったという経緯を分かりやすく説明すべきではないか。これが2番目の段階でしたが、そういうことを言ったとしても、安全保障の将来を考えるのであれば、根本的な矛盾は解決しない。従って、非核二・五原則という方向でこの問題を将来再検討すべきではないかという3段階での意見書を書きました」

 −−1958年からの日米安保条約改定交渉時に山田事務次官が退官後に語った証言がある。「核兵器を積んだ艦船の寄港は事前協議の対象になるとした1960年の政府・閣僚答弁は、野党の追及を恐れる取り繕いに過ぎなかった」というものです。ところが、この証言テープを有識者委員会に提示したのに無視をされてしまった、と。当時の証拠として吟味されるべきだとは思いませんか

 東郷氏「テープの取り扱いにつきましては、特に強い意見はないのですが、今回の有識者委員会全体の結論は、恐らくそのテープの存在を念頭において、当時の岸総理、藤山外務大臣、東郷安保課長、この問題についての米国側の考え方をある程度は知っていたのではないかという結論を出しておられます。その1つの根拠になっていたのではないかと思っています」

 −−91年以前は持ち込みはあり得たという話がありましたが、それ以降については米国政策の変更ということがいわれるが、91年以降も、核搭載能力を維持した原潜が入港する可能性があるという立場だったのではないか

 東郷氏「基本的には私の当時の認識は、従来の答弁を踏襲する、と。踏襲する中で、できるだけうそのない答弁をしようという気持ちはありました。けれども答弁の基本は固まっていて、踏襲するというのが私の記憶です」

 −−大平元総理が生誕100周年ということで、ドキュメント小説が出た。興味深く読んだ。核密約の問題や、西山参考人のかかわる事件のエピソードについても書かれている。ご感想は

 森田一元運輸相「ひと言でいえば、この問題は大変難しい問題だが、自分が全力を尽くせば何らかの方法があり得る、と。現実に田中内閣のときに、大蔵大臣として木村外務大臣と一緒になって田中内閣で解決しようとしたわけでございますが、いずれにしても、自分が十字架を背負っていくんだという気持ちであったが、結果的には亡くなるまで解決することができなかったと。非常に残念だったと思います」

 西山太吉元毎日新聞記者「大平外相時代というのは、池田内閣のときで、佐藤内閣にバトンタッチの状況ですけれど、このときに宏池会を中心とした、保守本流ですが、彼らの姿勢というのは非常に印象に残っている。というのは、イデオロギー的に非常に違う勢力が目の前にいたとしても、そのイデオロギー勢力を抹殺しようというこっちのイデオロギーを持たない。相手は相手としての存在を認める。立場も全く違うし、考え方も違うけれども、とにかく相手がそこにがっちり勢力を持っていれば、例えば、極端にいえば中国ですね。絶えず、接触してそこから妥協点を見いだそうとする、そういう政治姿勢、相手の立場を絶えず理解して存在を確認したうえで、行動もそれにあわせるように、妥協点を見いだして、調和点を見いだしていくという、昔のいわゆるニューライト、新保守主義といわれたが、そのときの政治姿勢をその後のいわゆる保守勢力の政治姿勢と絶えず比べてみて、いろいろなことを思い浮かべるときが多いんです。そういうようなものが案外、現代の政治に非常に必要ではないかと思うんです。脱イデオロギーで。それが非常に、あのときの強烈なイメージとして残っている。それが1番です」

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